ビルの屋上、赤井はスコープ越しに男の姿を捉えていた。狙いはたった今、建物を出て逃げ去ろうとしている男の足元。そこへ向けて引き金を引こうとした瞬間、男は突如、真後ろから突き飛ばされる。地面に伏したかと思うと、名前と揉み合いになっていた。
「……っ、!」
急遽、援護射撃しようとその狙いを定め直すが彼女が居ては無理だ。舌打ちをしたくなる思いでスコープを覗いていると、ほどなくして名前は男を制圧し隙を与えぬまま手錠を掛けていく。全く、知らぬ間に随分とタフになったものだ。危うさはあったものの無事に男を確保できている。ならば彼女の成長を喜ぶべきだろうが、妙な苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「無茶をしたな」
オフィスに戻ってから、自席にいた名前に声をかけると、彼女はわっと明るい笑顔を見せてくる。
「あれ、見えていました?」
「スコープ越しにな。俺がいたのは分かっていただろう?」
「うっ……でも男が見えた瞬間、身体が勝手に動いて、」
「気持ちは分からんでもないが、冷静さを欠けば命取りになる」
必要以上に危険を冒すなと暗に伝え、彼女に背を向ける。僅かばかりか誇らしげに輝く瞳を見ていられなかった。
「あ、赤井さん!待ってください!」
話はそれだけだと、煙草を吸いに行こうと思ったのだが名前が慌てた様子で後を追ってくる。レイドジャケットを脱いだ彼女は一段と線が細い。本当にその体でよくやっていると思う。
「……何だ」
「でも私、ジークンドーかなり身体に馴染んできていて」
「ああ、そう見えたよ」
「だから、以前とは違います」
そう、確かに悪くない動きではあった。しかし、言いたいことはそうではないのだ。
「あの!良かったら今度お手合わせ願えませんか?そうしたらきっと分かってもらえるはずなんです!」
ついには、そんな提案をされるものだから眉を顰めずにいられなかった。
「よしてくれ、そういう事を言っているんじゃない」
君とやり合う気はないと、あからさまに表情を変えて名前を見るが彼女も引くつもりはないらしい。
「でも、最近は師匠ともかなりやり合えるようになったんですよ!色々な条件でやってみるのも経験になりますし」
結局その日の終業後、名前とトレーニングルームへ向かっていた。気は全く乗らないが仕方がない。先に着替え終わり待っていると、名前もFBIと書かれたTシャツを着てロッカールームから出てくる。
「お待たせしました!」
軽く準備体操をしている彼女を見ながら、思わず息を吐いていた。さて、どうしたものか。
「わっ……さすがにちょっと緊張しますね!」
ジークンドーは筋肉に頼らず身体の原理に基づいて動くとはいえ、力の差は歴然。彼女が上達したからといって、その身軽な身体でどうこうできるとは到底思えなかった。柔らかく笑う名前を見ていれば、尚更。
「……始めようか」
マットの上、向かい合うように立つと名前は静かに目を閉じた。ジークンドーの肝である“脱力”ができるよう、呼吸を整えているのだろう。
「6秒だ、6秒で相手を仕留める。基本だろう?」
「っ、はい!」
「それを繰り返そう。スマホで開始と終了の合図を出す。2度目が鳴り終わるまでに制圧する」
敢えて一瞬も気を緩ませることができない状況を課せば、名前はごくりと喉を動かし表情を引き締めた。
「最初にスリーカウントがあってから、開始の合図だ。いいな?」
名前が頷いたのを確認し、開始ボタンを押す。首を軽く回しながら名前と対峙しようと振り返ると、彼女の瞳の色が変わっていた。強い覇気だ。見誤っていたと、そう思う一瞬の間にベルが鳴る。
「……っ、!」
先手を許してしまったが、名前の攻撃を軽く流し右足を彼女の足元へ伸ばす。しかし、素早く避けた彼女は一気に真横まで距離を詰めると、その右手で喉元を突くように狙ってきた。こちらも当然、右手で名前の細い喉を捉えてはいるが、まさかここまでやるとは。
「……俺は制圧しろと、言ったつもりだが?」
終了のベルが鳴ってもなお、体勢を崩すことはない。張り詰めた空気は、瞬きすらも憚られるよう。
「……これも、制圧です」
喉元は人の急所だ。迷いなくここを狙ってくるとは、厄介な肝の据え方を覚えてくれた。名前から感じる見たこともない空気感は、いつの間にやら身につけた術なのだろう。俺が日本へ行っている間、何があったのかは知らないが彼女はもう。
「そうだな」
仕方なく先に折れてやることにして彼女の首から手を下ろせば、それを合図に名前も手を下ろす。張り詰めた緊張感からか、心拍数が一気に上がったのだろう。静かなトレーニング室で名前の呼吸音だけが響いていた。
「っ……あの、今のって相打ちですよね?」
まだ、彼女の新たな一面を咀嚼できていない間に、名前はもう普段通りの雰囲気に戻っている。全く、いつの間にそんな技を覚えたのだろうか。自身をコントロールする術を身に着けたことには感心するが、だがこれくらいのことで喜んでくれるなとも思う。
「いや?」
そうして彼女の言葉を否定すれば、名前は怪訝そうな顔で見つめてきた。
「え、っ!」
「タイミングは分からなかったが、俺に打たせた時点で君の負けだ」
「そんな!」
「たとえ急所を狙っていても、最後は力の問題。君の突きで、俺は倒れんよ」
「ずるいです!じゃあ絶対私のポイントになりません!」
「なら俺に、打たせなければいい」
彼女を挑発するように言うと、名前は悔しさを露わにして元の位置へ戻っていった。
「じゃあ0-1で」
「冗談さ。1-1でいい。相打ちにしよう」
「嫌です。お情けのポイントなんていりません」
「おや?どうやら余計な事を言ってしまったようだな」
「はい!今すっごく悔しいんです。続けましょう。こうなったら持久戦です」
そうして、気づけば何度も6秒を繰り返す羽目になっていた。回を重ねる毎に疲労も増し、集中力も途切れてくるはずが名前は粘りを見せた。そのため攻撃を軽く当てる程度にしようと思っていても、何度かは強く彼女の身体に入ってしまう。その度に顔を歪めたい気持ちだった。
それでもあえて無言を貫き、名前が音を上げるまで様子を見るが、彼女はなかなか諦めない。ちらりと時計を見た時に初めて、思った以上に時間が経っていると気づいた。名前もさすがに限界だったのか、少しよろけるように膝をついている。
「……もうよそう。明日に響く」
いい加減諦めろという言葉を飲み込んで、床に置いたペットボトルを手に取った。帰り際にダイナーへ寄るべきだろうが、腹が空く気配はない。何をしているんだと、喉を潤しながら思う一方で名前の様子を伺えば、彼女は膝をついたまま俯いている。
「名前……?」
打ちどころが悪かったのだろうか。特に最後は一発、割と強い蹴りが入ってしまっていた。やはり、あれはまずかったのだ。彼女の元へ駆け寄ると、痛みからか苦しげに顔を歪めている。
「……立てるか?」
「はい……でももう一回っ……あともう一回だけ、お願いできませんか!」
「もうよせ、これ以上は無意味だ」
「でもっ」
「向き不向きがある。どうしたって男の俺には勝てないよ」
途中から名前の意図には気づき始めていた。これは経験を積むための練習ではなく、本気で勝ちにきているのだと。首筋に流れる汗を拭おうともせず、実力差を噛み締めるように座り続ける名前の姿は全く予想外だった。何故、君はそこまで。
「どうした?」
彼女の横へ片膝をついて、距離を縮めていく。らしくない、そう言いかけてやめた。他人から見たらしさなど押し付けでしかない。ただ普段の彼女とは違う様子が気になった。
「これでは、」
「……ん?」
「これではダメです……まだ足りない。私、全然頼りになれていません」
珍しく弱音を吐く姿に、正直、言葉を失っていた。何をそこまで、彼女が拘る必要があるというのだろう。全く見当違いなことを言っているというのに。
「……そんなことを考えていたのか?」
あえて茶化すような言い方をしてみれば、名前は怒ったように視線を向けてきた。
「私は真面目に言っています」
「俺も真面目だ。そんなこと、考える必要はない……ほら、行くぞ」
そうして無理やり名前の手を引き、腰を支えながら立ち上がらせると細い指先は疲労で僅かに震えていた。
「全く、ここまで我慢していたとは」
「大丈夫です。痛くないです、疲れていません」
「……まあいい。だが君は一つ、勘違いをしている」
「……かんちがい?」
「頼りしているさ。それに、さっきの動きも悪くなかった」
名前は立ち止まり、数秒固まったように瞬きを繰り返した。どうやら本当に思いもしていなかった言葉らしい。尽きない向上心も考えものだ。
「あかい、さん……っ!」
徐々に柔らかになっていく表情は、相変わらず面白い。いつまでも見ていたいと思ってしまう。そうして最後は、パッと花が咲いたように笑うのだ。
「だが油断するな。これはあくまで自衛に使え」
「……はいっ!」
気づけば彼女の肩に、そっと触れていた。自衛するには十分な実力だ。それがあれば、ある程度は安心できる。だが過信してくれるなと伝えたかった。昼間のような無茶は彼女はしなくてもいい。
「じゃあ、着替えてきますねー」
恐らく身体は痛み、歩くことも辛いはずが、名前は必死にそれを隠しながらロッカーへと入っていく。そんな彼女の姿を見ながら、赤井は小さく息を吐いていた。